2018年1月4日木曜日

君は安全神話に関心がないかも知れないが、安全神話は君に関心がある(その2)

 目次
4、風評どうかはリスク評価の問題である。
5、リスク評価の現実は、政治の問題であり、広告の問題である。


4、風評どうかはリスク評価の問題である。

 風評とは「根拠のない噂」であるから、風評か否かとは、科学的な根拠があるか否かという問題である。ここでは、放射能が原因となって健康にどのような悪影響を及ぼすか、が問題となっている。だから、これはリスク評価場面つjまり「放射能のリスク評価」の問題である。
すなわち、放射能による健康被害について、何が「根拠のない噂」=風評なのかを明らかにするとは、「放射能のリスク評価」を検討するということにほかならない。

 食品安全委員会の定義では、食品の健康に及ぼすリスク評価とは、人が食品中に含まれる添加物、農薬、微生物等のハザード(危害要因)を摂取することによって、どのくらいの確率でどの程度の健康への悪影響が起きるかを科学的に評価すること(食品安全基本法11条でいう食品健康影響評価のこと)。これによると、「放射能のリスク評価」とは、人が環境中の放射能を外部被ばくおよび内部被ばくすることにより、どのくらいの確率でどの程度の健康への悪影響が起きるかを科学的に評価することである。

そして、(その1)の前書きで述べた通り、安全神話とはリスク評価の別名であるから、従って、風評も安全神話もリスク評価の別名のことである。


5、リスク評価の現実は、政治の問題であり、広告の問題である。
  
とはいえ、「放射能のリスク評価」のためには、リスク評価の総論(基本原理)と各論(放射能)の両方の検討が必要である。ここでは、さしあたり総論だけを取り上げる。
リスク評価の総論についても、リスク評価の本来のあるべき姿と現実の姿という2つの問題がある。
リスク評価の本来の姿とは、一言で言って、食品の場合なら、食品中に含まれる添加物、農薬、微生物等のハザード(危害要因)によってどのような健康被害をもたらすかを科学的に評価することである。それは真理の世界の問題であり、倫理・規範・政策の世界の問題ではない。つまり、真理の世界の問題に、倫理や規範や政治が口をはさむことはできない。 たとえオウム真理教の信者がいくらけしからんといっても、裁判所 信者がやっていない犯罪(真か偽かという問題)とやったと認定して処罰できないのと同じことである。

 しかし、リスク評価の現実はこの本来の姿=科学的認識とはちがっている。それは政治の問題である。500年前、マキヴェベリ君主論で、君主は聖人である必要はないが、そう見える必要があると言っている。これと同じく、「リスク評価」もまた科学に基づく必要がないが、そう見える必要がある。この意味で、リスク評価の現実は科学をまとった政治の問題である。
もっと言えば、マキヴェベリの君主論が、いかにして大衆の指示を獲得するかという「広告」の問題であるのと同様、「リスク評価」もまた、いかにして大衆の指示を獲得するかという「広告」の問題である。リスク評価やリスクコミュニケーションの舞台裏が広告代理店の活躍の場であることは今や子どもでも知っている。

リスク評価の現実が政治の問題であることを赤裸々に明かしたのが、2005年12月、狂牛病に端を発して2年前から輸入停止中の米国牛の輸入再開をめぐる食品安全委員会の答申、正確には食品安全委員会中に設置されたプリオン専門調査会がおこなった、米国牛の狂牛病に関するリスク評価だった。このリスク評価をめぐり、同調査会の座長代理(東京医大教授)が「国内対策の見直しを利用された責任を痛感している」と述べ専門委員の辞意表明の事態をはじめとして、奇奇怪怪な事態が続発したからである()(そのレポート->「BSE審議の座長代理が辞意表明 食安委に疑問」 「政府姿勢に異論のプリオン専門委員に厚労省が圧力、食安委本会議委員が指図」という記事)。


)プリオン調査会、半数の委員が辞任/揺らぐ食の番人の信頼性
米国産牛肉の輸入再開をめぐる安全性評価を担ってきた内閣府の食品安全委員会プリオン専門調査会で、十二人の委員のうち半数が四月の改選で一気に辞める異例の事態が起きた。消費者団体などから慎重派とみられていた六人の辞任で、食の番人である同委員会が掲げる「公正中立」の立場が大きく揺らいでいる。」東奥日報 (2006年4月12日)

 
このとき、一連のドタバタ劇場を目の当たりにした一般市民は、一方で、事実の科学的認識を職務とする科学者が政治的決定を行う役回りを演じ、他方で、政治的決定を行うことを職務とする政治家・官僚が(自身の政治的決定に有利な)事実の科学的認識を行う役回りを演じ、至るところで越権行為がまかり通っている現実を痛感した。

しかし、この時の食品安全委員会の反省とは、二度と、こうした内部告発を伴う委員の辞意表明を出さないこと(臭いものに徹底してふたをすること)であり、「科学的認識と政治的決定の間の越権行為」にまみれたリスク評価を、本来のあるべき姿に戻すということ(臭いものを元からただすこと)ではなかった。

この食品安全委員会の反省を忖度し、立派に踏襲しているのが今日の原子力規制委員会をはじめとする、原子力、遺伝子組み換え技術等に関する政府の専門委員会である

当然ながら、今回の復興大臣の指示も、この食品安全委員会の反省を忖度し、踏襲しており、彼らにとって、風評の定義=リスク評価は政治問題、広告問題である。しかし、リスク評価の本来の姿である科学的認識から言わせると、リスク評価を(正確に言うと、科学的認識を経ないで)政治の問題、広告の問題にすることこそ、最も根拠のない議論であり、これこそ風評にほかならない。この意味で、復興庁こそ根拠のない議論=風評を流している。は、リスク評価の本来の姿に立ち返って、科学的認識に基づかない今回の復興大臣の指示を「風評払拭」の第1号として公表し、自ら襟をただすべきである。

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