2020年1月30日木曜日

放射線の単位はなぜあんなにたくさんあるの?それぞれどうなってるの?(4)(空間線量率ってなに?)

先ほどの「放射線の単位は‥‥(1)、(2)、(3)」で、ひとまず、放射能の単位として登場する
昔はキュリー 今はベクレル
照射線量(レントゲン)
吸収線量(昔はラド。今はグレイ)
線量当量 (昔はレム。今はシーベルト)
等価線量(シーベルト)
実効線量(昔はレム。今はシーベルト)
について説明しました。

けれど、ここで、腑に落ちないことがあります。
ミスター100ミリシーベルト山下俊一氏が話題にしたいわゆる空間線量、正確には空間線量率、これって、上の放射線の単位とは別物なの?それともどこかに該当するの?
という問題です。

というのは、一般に、上の単位の解説の中には空間線量率についての説明がないからです。
しかし、チェルノブイリ法の放射能汚染ゾーンを定義する際に、私たちにおなじみの年間1mSvという空間線量率が登場します。
こんなおなじみの、重要な単位の解説がない!なんておかしい?
改めて、このような疑問がふつふつと沸いてきます。
       ↓
そこで、ネットで「空間線量率とは」で検索すると、意外にどこにも明快な解説がヒットしません。

例えば、環境放射能用語集 - ようこそ「日本の環境放射能と放射線」へで、
【空間線量】
原子力施設内や一般環境における周辺空間のγ線による線量で、放射線モニタリングの測定項目の一つです。主に地面や建造物に含まれる天然放射性核種からのγ線(宇宙線も含む)に起因する線量です。放射線によって空気中で生じる電荷をもとにする線量が照射線量(単位はμR/hなど)、空気中で吸収されるエネルギーをもとにする線量が空気吸収線量(単位はnGy/hなど)といわれます。計数率から線量率へ換算することもできます。 

おまえ、人を煙に巻いてんのか、何が「ようこそ」だ!と言いたくなるような解説です。

また、原子力百科事典でも、
 空間放射線量率 くうかんほうしゃせんりょうりつ

 ある時間内に空気中を通過する放射線の量を言う。平常時や緊急時の環境モニタリングにおける重要な測定項目のひとつである。ガンマ線による空気吸収線量率または照射線量率はサーベイメータ、連続モニタ、可搬式モニタリングポスト等により測定される。  

原子力百科事典はわりあいまともなサイトですが、こと空間放射線量率に関しては、ちんぷんかんぷん。

結局、最も分かりやすいと感じたのは、Weblio辞書
空間線量率(空気吸収線量率)
対象とする空間の単位時間当たりの放射線量を空間線量率という。 放射線の量を物質が放射線から吸収したエネルギー量で測定する場合、線量率の単位は、Gy/h(グレイ/時)で表す。空気吸収線量率ともいい、表示単位は一般的にnGy/h(ナノグレイ/時)及びμSv/h(マイクロシーベルト/時)である。 原子力発電所では、周辺環境の安全を確かめるため、モニタリングステーション及びモニタリングポストを施設周辺に設置し、環境中の空気吸収線量率を連続して測定している。

この解説が優れているのは(ホントは別にたいしたことではないのですが、ほかのサイトがみんなごまかしているので優れてみえる)、
空間線量率のことを、ハッキリ、空気吸収線量率つまり、吸収線量の1つだと書いていることです。つまり、
吸収線量というのは、放射線が物質(人体や空気中、水中)を通過するとき、放射線の持つエネルギーの一部が物質に吸収される。その吸収される量のことですが、
放射線が通過する物質が空気中なので、これを空気吸収線量率と呼ぶ、つまり「吸収線量の1つ」という意味です(←なお、私はここで吸収線量ではなく、なぜ吸収線量率と率をつけるのか、まだその訳が分かりません)。
だから、空気吸収線量率の単位はグレイで表すことになります。これも分かります。
     ↑
しかし、そのあとに、「表示単位は一般的にnGy/h(ナノグレイ/時)及びμSv/h(マイクロシーベルト/時)である」←これが分からない。なんで、ここで異質な単位であるシーベルトが登場するのか、分からないし、その説明も全くありません。
人を煙に巻く、とはこのことです。科学的にやるんだったら、エネルギーの量を示すグレイとは異質なシーベルト/を導入する根拠を示して欲しい。それを示せないというのなら、非科学的と言われてもしょうがないんじゃないか。

以上の通りで、空間線量率とは、、
1、放射線が通過する物質が空気中なので、吸収線量の1つとして、空気吸収線量率のこと。
       ↑
ここまでは分かった。しかし、そのあとの、
2、空気吸収線量率の単位は般的にnGy/h(ナノグレイ/時)及びμSv/h(マイクロシーベルト/時)である。
       ↑
突如として、吸収線量で、シーベルトが登場できるのか、でぜんぜん分からない。理解できない。

これが、現時点での、空間線量に関する私の理解です。

放射線の単位はなぜあんなにたくさんあるの?それぞれどうなってるの?(3)(等価線量から実効線量へ)

「放射線の単位は・・・(2)」の続きで、
2、放射線を浴びる側(人体・環境)に注目した単位のうち、
実効線量です。

実効線量とは、先ほどの、「具体的な放射線の人体への健康影響」を量的に示すために考え出された、
臓器が受けた吸収線量に、放射線の種類に応じた或る数値(放射線加重係数)を掛け算して求めた値である等価線量
をさらに発展させた概念でして、
等価線量が「臓器や組織ごと」の吸収線量に或る数値を掛け算して求められたものであるの対し、今度は、「臓器や組織ごと」ではなくて、(臓器や組織の全体である)「全身」に着目して、「具体的な放射線の人体への健康影響」を量的に示そうとしたもの。
     ↓
問題は、どうやって「全身」の「具体的な放射線の人体への健康影響」を示すのか、そのやり方です。以下の2段階の計算で求めるらしい。
1(第1段階):先ほどの組織・臓器ごとに算出された等価線量、これに、組織・臓器ごとにどれくらい放射線に影響を受けるか(感受性の高い低い」を数値で示したもの(組織荷量係数)を掛け算した値を出す、
2(第2段階):1で求められた組織・臓器ごとの値を合計して、「全身」の値を出す。
     ↑
そのアイデアはいいとしても、問題はこのアイデアをどう具体化するか、つまり実際に科学的に正しい値として導くか、です。
先ほど述べた通り、吸収線量に掛ける「放射線加重係数」自体が、実際に放射線の種類に応じてどれだけの数字を掛け算するのが科学的に妥当なのかは、簡単には分かりません。
今度は、さらにもう1つ掛ける「組織荷量係数」自身もまた、実際に放射線の種類に応じてどれだけの数字を掛け算するのが科学的に妥当なのかは、簡単には分からない。
つまり、二度も不明確な数字が登場して、掛け算が行なわれる。従って、その掛け算の結果(等価線量)、或いは掛け算の答えを合算した結果(実効線量)もどれほど科学的に正しいのか、いずれもフィクションとしての性格を免れないのではないかと思います。
     ↑
次に、なぜ、このようなアイデアが生まれたか?ですが、
それは、「人体の各組織、各臓器の放射線の健康影響」を量的に表したいので、等価線量という概念を作り出したのに対し、
これは、「各組織、各臓器ごと」ではなく、「人体の全身」に対して放射線の健康影響」を量的に表したいときに、この実効線量という概念を作り出したものです。
具体的には、ガラスバッチという個人線量計で測定する個人線量がこの実効線量のことです。
個人線量の求め方
http://www.c-technol.co.jp/monitoring/pdf/service07.pdf

311以後、福島県民にガラスバッチを持たせて個人線量を測定させました。
その際、この値がいい加減ではないかという議論が噴出しましたが、これは実際のガラスバッチの精度、設定に問題があったばかりでなく、そもそも個人線量という概念が実効線量というフィクションによって作り上げられていることもその一因ではないかと私は思っています。

本当は、さらに、細かい議論があるのですが、
ひとまず、
等価線量と実効線量の関係についてざっとコメントしました。

放射線の単位はなぜあんなにたくさんあるの?それぞれどうなってるの?(2)(吸収線量から等価線量へ)

「放射線の単位は・・・(1)」の続きで、
2、放射線を浴びる側(人体・環境)に注目した単位のうち、
吸収線量(昔はラド。今はグレイ)。

これは、放射線が物質(人体や空気中、水中)を通過するとき、放射線の持つエネルギーの一部が物質に吸収される。その吸収される量を、1kgあたりの物質が吸収するエネルギー量が1ジュールのとき、これを1グレイと呼びました。
ここではエネルギーが吸収される物質が何であるか、また物質を通過する放射線の種類が何であるかは問わず、どんな物質、どんな放射線であれ、単位質量(1kg)あたりの物質が吸収した放射線の持つエネルギーの量だけに着目して、放射線の量=吸収線量としたものです。
http://search.kankyo-hoshano.go.jp/food2/yougo/kyushyu.html
     ↑
しかし、これでは、放射線防護上問題となる、具体的に放射線の人体への健康影響を決定することができません。
そこで、「具体的な放射線の人体への健康影響」を量的に示すために、放射線の種類により人体への影響に差異があることを反映させようと()、
放射線の種類に応じて、1(ガンマ線、ベータ線)とか5(中性子)とか20(アルファ線)とかいう数字(←これを放射線加重係数とよびます)を吸収線量に掛け算した値を出します。これを等価線量と呼びます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%89%E4%BE%A1%E7%B7%9A%E9%87%8F

)その発想自体は単純で、ガンマ線、ベータ線、アルファ線になるほど人体への影響は大きいから、それだけ大きな数字を掛け算する。
       ↑
ただし、実際に放射線の種類に応じて、どれだけの数字を掛け算するのが科学的に妥当なのかは、簡単には分からない。
       ↓
そこで、学者たちが苦労して、ひとつのアイデアを思いついた。
それが、線エネルギー付与(Linear Energy Transfer ; LET)を用いた数字〔線質係数(quality factor)という〕を空間のある一点における吸収線量に掛け算した値でどうだろうか、ということになった。
これが、線量当量(dose equivalent)と呼ばれる、放射線の人体への健康影響を表現するひとつのアイデアだった(1977年のICRP勧告で登場)。
       ↑
しかし、次の避難を浴びて、しぼんでしまう。
放射線防護にとって重要なことは、ある一点における吸収線量ではなく、組織・臓器全体の吸収線量であるのに、線量当量は「ある一点における吸収線量」に着目するもの。
       ↓
ある一点ではなく臓器の全体が受けた吸収線量に着目して、それに何とか科学的な(装いを備えた)数値を掛け算するようにした。この数値が放射線加重係数で、掛け算した値を等価線量と呼んだ(ICRP1990年勧告に登場)。
       ↑
不思議なことは、こうやって折角努力して等価線量を定義しても、いざ実際にどうやって測定するの?となると、実は測定できない(以下、ウィキペディアの解説)。
科学の本質は実証にあるのに、測定できない値を出して、それで何が嬉しいのか、何のためなのか、単なる自己満足ではないかと、ここがさっぱり分かりません。

等価線量の測定
 等価線量は人体の臓器に対して定義されたものであるため、例えば、甲状腺などの体の内部の臓器について直接測ることは原理的にできない。そのため、実務として等価線量は、環境モニタリングまたは個人モニタリングの結果から観念的に実際受けたであろう量以上の線量当量を計算によって算出し、それを等価線量とみなすことで求められる。

ひとまず、
吸収線量
線量当量
等価線量
の3つについてざっとコメントしました。

等価線量と実効線量の関係は->次の投稿。

放射線の単位はなぜあんなにたくさんあるの?それぞれどうなってるの?(1)

先日のスカイプ会議でも話題になりました。
放射線の単位はなぜあんなにたくさんあるの?
それぞれどうなってるの?さっぱり分からないわ

こういう話をアケスケに話できるところが、この育てる会のいいところでして、
本当に、放射線の単位は人(市民)泣かせです。
しかも、本当はもっとずっと簡単に、それを理解させることができるのに、わざと分かりにくく説明して、市民を煙に巻く。そして、市民が「ああ、ダメだ。専門家にお願いしなっくちゃ」と言わせるのを待っている。やはら小難しいスコラ哲学を論じた中世の坊主どもの手口と同じです。

ただし、この放射能の単位の問題は私たちだけにとどまらず、おそらく全ての市民が躓かされている問題だと思うので、今後の市民運動の中でも必ず登場する問題なので、一度は、この問題にケリをつけておく必要があります。

学習会も二巡目に入り、その時期が来たのではないかと思い、以下、その試みです。

放射能の単位として登場するやつは以下のものです。
昔はキュリー 今はベクレル
照射線量(レントゲン)
吸収線量(昔はラド。今はグレイ)
線量当量 (昔はレム。今はシーベルト)
等価線量(シーベルト)
実効線量(昔はレム。今はシーベルト)
    ↑
まず、これらをガラガラポンで2つに区分。

その区分の仕方は、
事態を、放射線を発射する側に着目してみるか、それとも放射線が到達した(浴びる・受ける)側に着目してみるか です。
つまり、
1、放射線を発射する側(放射線源)に注目した単位
 昔はキュリー。今はベクレル

2、放射線を浴びる側(人体・環境)に注目した単位
 吸収線量(昔はラド。今はグレイ)
 線量当量 (昔はレム。今はシーベルト)
 等価線量(シーベルト)
 実効線量(昔はレム。今はシーベルト)

この2つのどちら側にも属さないのが照射線量(レントゲン)。
その理由は、これは、放射線を発射したあと、人体・環境に到達するまでの、空気中を飛び交っている放射線の量を示すものだからです。
だから、正確には、次の3つに分類できます。

1、放射線を発射する側(放射線源)に注目した単位
2、放射線を浴びる側(人体・環境)に注目した単位
3、放射線発射後、ものに到達するまでの、空気中を飛び交っている状態に注目した単位。

1は、放射性物質が不安定な状態から安定した状態になろうとして、原子核が崩壊するとき、原子核が1個崩壊すると放射線を1個発射します。これを1ベクレルといいます。
 そうすると、或る放射性物質の原子核が毎秒、何個崩壊するか(つまり、放射線を何個発射するか)を崩壊した個数で○ベクレルという量で表現できます。

 例:ある放射性物質が8秒間に原子が320個崩壊する場合、その放射性物質の放射能は40ベクレル(Bq)とあらわします。
        ↑
 チェルノブイリ法でいうと、セシウム137という放射性物質が、1平方メートルあたり、18万5000ベクレル以上のとき、移住権利ゾーンとされていますが、
 これは、1平方メートルあたりに点在するセシウム137の原子核が、毎秒18万5000個崩壊して、18万5000本の放射線(ベータ線)を発射します。ただし、セシウム137の場合、さらにその崩壊したバリウム137がただちに毎秒18万5000個崩壊して、18万5000本の放射線(ガンマ線)を発射するという意味です。

 参考文献
 http://www.maff.go.jp/j/syouan/soumu/saigai/pdf/1_kiso.pdf

とりあえず、以上が1、放射線を発射する側(放射線源)に注目した単位(昔はキュリー。今はベクレル)です。

2、放射線を浴びる側(人体・環境)に注目した単位は->次の投稿へ。

2018年1月6日土曜日

君は安全神話に関心がないかも知れないが、安全神話は君に関心がある(1~4)(2018.1.6)

福島原発事故から6年9ヶ月経過した2017年12月12日、人々が安全神話という言葉すらすっかり忘れてしまった頃になって、突然、日本政府は、復興推進のため、「風評払拭」を掲げる復興大臣の指示を出しました。「風評」とは主に「放射能による健康被害の危険性」を問題にする見解に向けられたものです。つまり、これらの見解は風評=「根拠のない噂」であり 、払拭する必要がある、と。しかし、そうだとしたら、これらの見解に科学的な根拠がないことを説明する必要があります。それならば、単刀直入にズカッと、「これこれの科学的な理由で、放射能による健康被害の危険性はない」と言えばよい。

 しかし、正面から堂々とそれをせずに、なぜ、「風評」などというもって回った言い方で、「放射能による健康被害の危険性」を問題にする見解を「排除」(払拭)しようとするのでしょうか。

 福島原発事故は日本史上最悪の人災であり、この経験で、それまで幅を利かせていた安全神話は崩壊しました。福島原発事故のあとでは、それまでの原発の安全性の考え方は通用しないのです。にもかかわらず、日本政府は、その悲惨な体験のあともなお、事故前と変わらず、「安全性」に対して、「放射能による健康被害の危険性」を問題にする見解を風評の名のもとにばっさり「排除」(払拭)しようとする根深い体質が依然根を張っているように思えてなりません。

 「放射能による健康被害の危険性」を問題にする見解を風評の名のもとにばっさり「排除」(払拭)するのは、科学的な証明によるものではなく、その見解は間違っているという信念・信仰によるものです。だから、これこそ安全神話の典型です。つまり、風評払拭に励む日本政府は、原発事故後もなお安全神話にしがみついているのです。

ところで、そもそも安全神話とは何か。それは決して神話の世界のお話ではなくて、私たちの日常生活の中で原発事故前から馴染みのある言葉として登場し、流通しているものです。それがリスク評価()です。今回の復興大臣の指示にも「風評払拭・リスクコミュニケーション強化戦略」とリスク評価の基本単語が登場します。 安全神話の正体を知りたかったら、リスク評価の正体を知る必要があります。

 そこで、以下は、
1、日本政府は、なぜ、福島原発事故という悲惨な体験のあともなお、それほどまでに安全神話にしがみつくのか。
2、 安全神話とは何か。言い換えれば、安全神話の別名であるリスク評価の正体とは何か。
について、検討したものです

) 
食品安全委員会の定義では、食品の健康に及ぼすリスク評価とは、人が食品中に含まれる添加物、農薬、微生物等のハザード(危害要因)を摂取することによって、どのくらいの確率でどの程度の健康への悪影響が起きるかを科学的に評価すること(食品安全基本法11条でいう食品健康影響評価のこと)。これによると、「放射能のリスク評価」とは、人が環境中の放射能を外部被ばくおよび内部被ばくすることにより、どのくらいの確率でどの程度の健康への悪影響が起きるかを科学的に評価することである。

  ***************


目 次
その1


その
4、風評どうかはリスク評価の問題である。

君は安全神話に関心がないかも知れないが、安全神話は君に関心がある(その4)

目次
8、科学の力が尽きたところで「不確実な事態」をどう評価したらいいかという判断で登場する最大の判断基準の1つが予防原則である。
9、予防原則世の識者から目の敵にされ、黙殺される。それはなぜか。彼らにとって不都合な事態を引き起こす。
10.(補足)予防原則はなぜ普遍性を備えていると言えるのか。


8、科学の力が尽きたところで「不確実な事態」をどう評価したらいいかという判断で登場する最大の判断基準の1つが予防原則である。

(1)、リスク評価は科学の限界の問題 

その3述べた通り、そもそもリスク評価が最も問題となるのは、測定値が科学的に正しいかどうかといったことではなく、むしろ、そうした科学の探求を尽くしてみたが、それでもなお或る現象の危険性について確実な判断が得られないときである。つまり、科学の力が尽きたところで、初めて、ではこの「不確実な事態」をどう評価するのだ?という判断が問われる時である。その意味で、リスク評価とは科学の問題ではなく、科学の限界の問題である。言い換えれば、リスク評価とは、科学的に「解くことができない」にもかかわらず「解かねばならない」、この2つの要求を同時に満たす解を見つけ出すというアンチノミー(二律背反)の問題である。
そうだとしたら、このアンチノミーをどうして科学的判断=真(認識)だけで解くことができるだろうか。科学の限界の問題を科学で解こうとすることほど非科学的なことはないからである。言い換えれば、科学者は科学の枠内の問題については専門家かもしれないが、しかし、科学の限界の問題について専門家である保証はどこにもない。そこで必要なのは、科学の限界線(科学的不確実性の内容と程度をできるかぎり明確に認識すること)に立って、そこからジャンプすることである。どこに? ②善(規範・法・倫理・道徳・政策・宗教)の判断に。そこで問題は、いかなる善が問題となるのかいかなる人たちがその判断に関与するが適切かである。

(2)、リスク評価で問われる②善(規範・法・倫理・道徳・政策・宗教)とは?

これを考えるにあたって、2つの善(規範・法・倫理‥)を区別する必要がある。1つは、共同体の中で通用する善(規範・法・倫理‥)。もう1つは、共同体を超えたところでも通用する普遍性を備えた善(規範・法・倫理‥)。いわゆる普遍法(自然法)、普遍宗教などである。

今ここで、私たちに必要なのは普遍性を備えた善(規範・法・倫理‥)である。そのような普遍性を備えた善の1つが予防原則である。なぜなら、予防原則が言われるようになったのは、
①.人類がいまだかつて経験したことのなかった新しい現実が登場したからで、この未知との遭遇に従来の救済方法では対応し切れず、「新しい酒は新しい皮袋に盛る」必要があったから。

②.では、何が「いまだかつて経験したことのなかった新しさ」なのか?それは、次の4つの要素である。

 (a) .リスクの不確実性=予見不可能性
 (b).不可逆性=回復不可能性
 (c) .晩発生(実際の被害が発生するまでに時間がかかること)
 (d) .越境性(リスク源が国境を超えて移動すること)


では、以上の「いまだかつて経験したことのなかった新しい事態」に対する対策である「新しい皮袋」とは何か?それは一言で言うと、「将来取り返しのつかない事態が発生する恐れがあるものについて、その発生が起きないように前もって予防的な措置を取ること」である。
ただし、予防原則は生成途上のものであるため、その具体的な中身については確定的に言うことはできない。しかし、そのエッセンスは「転ばぬ先の杖」「備えあれば憂いなし」であり、誰にも理解できる。だから、誰も反対しないと思われる。しかし、‥‥

9、予防原則世の識者から目の敵にされ、黙殺される。それはなぜか。彼らにとって不都合な事態を引き起こす。

予防原則が世の識者から目の敵にされ、黙殺される最大の理由は、予防原則が普遍性を備えた善だからである。それは共同体の内部でだけ通用する善とは異質なものである。そのため、世の識者は普遍性を備えた善に対して正面から反論できない。かつてなら、治安維持法違反や国家転覆罪等で暴力的に抑圧できたのが、現代では不可能となった。そこで、無視、黙殺による排除がとられた。「ィ!!予防原則のよの字も世間で話題にしてはならない」--これが彼らの唯一の方針である。

では、予防原則の何を世の識者は目の敵にするのか。その最大の理由は、予防原則のエッセンス「疑わしきは(命・健康・環境等を)守る」は、その結果、命・健康・環境被害をもたら側の経済活動規制されるため、思うままに経済活動したいという新自由主義の信奉者たちのご機嫌を損なうからだ。
とはいえ、彼らも自らとその一族の命・健康については、もちろん予防原則の信奉者だ。賢い彼らは危険なところには一歩も近づかない。だから、彼らの予防原則は他の人に当てる物差しを自分にもあてることを拒否する」という二重の基準(ダブルスタンダード)によっている。だから、彼らの正体は聖書で定義され偽善者である。
 
かつて、普遍的な価値を持つ自由、平等、独立が人々の尊厳を示す貴い証として、人々はこれを手に入れるまで命を賭けても抵抗をやめなかったように、いま、普遍的な価値を帯びる予防原則は、現代を生きる我々の尊厳を示す貴い証として、人々これを手に入れるまで、命を賭けても抵抗し続けることにやめないだろう。これは歴史の法である。

 
10.(補足)予防原則はなぜ普遍性を備えていると言えるのか。

それは「不確実な事態」における普遍的な倫理を示したものである。つまり、被害が発生するかどうかが予見できず、なおかつもし被害が発生した場合には元に回復不可能な事態に至るという「不確実な事態」が発生した場合、人の命、健康はその危険から守られるべきであるという倫理は普遍性を備えている。

のみならず、予防原則は
生命の本来の営み対応していることが近年の分子生物学の遺伝子解析から明らかとなった。すなわち、
遺伝子はタンパク質を作るための情報であり、それは主に生命活動を促進、発展させるものに役立つものだと考えられてきたが、近年は細胞の無際限な増殖(発ガン)を抑制する作用といった抑制面が注目されるようになった。つまり、細胞は、元々ほうっておけば容易に暴走する仕組みを内臓しており、それに対して、この暴走を極力抑える予防原則的なシステムが備わって初めて正常な生命活動が保たれていることが認識されるに至った。

タンパク質の無際限の蓄積や発展は
生命の営みにとってむしろ破壊的なのだ。しかし、「人間と人間の関係」においては、ここ200年余りの間に、無際限の蓄積や発展があたかも進化・進歩のように思い込むようになってしまった。その結果、人間社会では破壊的や蓄積や発展を極力抑えるシステムが働かなくなってしまった。しかし、無際限の蓄積や発展を抑制するシステムこそ生命誕生以来何十億年の生命の進化を支えてきた原理である。

今、分子生物学の最新の成果から、タンパク質や細胞の破壊的な蓄積・発展を極力抑えバランスを保つという予防原則的なシステムによって支えられた生命の営みの歴史を学び、そこから人間社会の歴史を見つめ直す意味がある。それが予防原則の導入である。


2018年1月5日金曜日

五十にして天命を知る-リスク評価論への目覚め-(2004.6.6)

君はバイオテクノロジーに関心がないかも知れないが、バイオテクノロジーは君に関心がある。

2004年6月、「エントロピーの法則」などで知られるアメリカの文明批評家ジェレミー・リフキンが、バイオテクノロジー革命がもたらすものについて考察した書物「バイテク・センチュリー」(日本語版は1999年4月、集英社刊)に接し、驚愕し、これをノートに書き留めました。

それは、バイオテクノロジー革命が物理学の革命から始まった近代文明がその後辿ったもろもろの成果の一大集約点であること、いってみれば我々の文明の到達点であることが明らかにされ、それゆえ、同時にこれが文明の光と影の両方に渡って決定的な出来事に遭遇するであろうことを示唆するものだったからです。
私のようなズブの素人には、難しい専門的知識の説明より、たとえ仮説にせよ、こうしたパースペクティブ(大局観)をもって事態を説明しようとする書物が入門書としてありがたかった。

これを読んだ瞬間、私の後半生の方向が決まりました。そのことをその夏の書中見舞いで、こう書きました。


少し前ですが、ようやく私の後半生の方向が決まりました。

ジェレミー・リフキン「バイテク・センチュリー」(集英社)
という本と出会ったおかげです。

私は、医者になります(^_^)。
というか、
「遺伝子工学」
「リスク評価学」
「予測生態学」
をマスターしたい。

そのために、今、特許の専門家になる準備をしております(もっか、その方面の専門家について修行中です)。
少し前に、青色発光ダイオードの中村修二の弁護士事務所に勤務したいとラブレターを書きましたが、あんなゆうちょなことをしている場合ではない。

もっとダイレクトにやる必要がある(^_^)。

昔、有志と著作権の勉強会をやっていて、それが変節して、数学の勉強会になりましたが、あれが実は、挫折してしまいました。
しかし、今回、遺伝子工学を知る中で、その原因が目からウロコガ落ちるように分かり、今度は、ぜったい挫折しないでやる見通しが持てました。
今度こそ、マトリックスも量子力学もサイバネテックスも身を入れて取り組めます。

だから、もういっぺん、数学と物理の勉強を再開します(医者やリスク評価学のマスターのために必要なんです)。

一言で言うと、先日、カンヌ映画祭でパルムドールを取ったマイケル・ムーアみたいな気分です。

 1年後、それが実現する羽目になりました。それが新潟県上越市で始まった日本で最初の遺伝子組み換え作物野外実験の差止裁判=禁断の科学裁判です。
願ったからといって夢は実現するものではない、しかし、願わなければ夢は絶対実現することはない--今回もまた、この真理を確認した次第です。

このノートに興味を持った人は、是非、本書「バイテク・センチュリー」(日本語版英語版)を読んでみて下さい。


「バイテク・センチュリー」ノート全文 (ワード版)

「バイテクセンチュリー」ノード全文(ブログ版)
冒頭部分の抜粋

0、序――ノート作成の動機――

(1)、始源的なものはそれが成熟したときに視えてくる――科学のエッセンス、産業社会のエッセンスは今後のバイオテクノロジーの中で最もクリアに照らし出される筈である。

 だとすれば、過去の工業社会の光と影、物理・化学の光と影の体験を、バイオテクノロジーの時代の中でもまた改めて、しかも最も徹底した形で反復することになるだろう。

 だとすれば、ちょうど今、工業社会が、その影の体験の末に、(表向きにせよ)「環境に優しい」「持続可能な社会」を掲げたように、バイオ社会も、いずれ、そうしたスローガンを掲げるようになるだろう。

 しかし、そのために、人類は、これまで、被爆、公害といった工業社会、物理・化学がもたらした悲惨極まりない体験をくぐり抜けてこなければならなかった。

 だとすれば、今後、バイオ社会における「環境に優しい」「持続可能な社会」というスローガンを獲得するために、またしても同じような悲惨な体験を反復しなければならないのか。
――人類は、そこまで愚かではない。
 だとすれば、その悲惨な体験の反復を食い止めるために何が必要だろうか? 何が可能だろうか?
      ↓
このノートは、それを探求するために思い立ったもの。

(2)、もうひとつ。
 社会に新しいテクノロジーを根づかせ、発展させていくとき、推進者たちは、そのためには、単にその技術が優秀であるのみならず、それ以外にも、政治、経済、マスコミ、文化、教育、哲学など様々な分野でそれを支持し、サポートする全般的な動き、というより運動が企てられる――或る意味で、それは殆どマインド・コントロールに近い――が、もっか売り出し中のバイオテクノロジーは、こうした運動の生成過程をつぶさに観察するに打ってつけの対象である。

 そして、その観察から、我々が既にどっぷり漬かってしまい、マインド・コントロールされていることすら自覚しなくなってしまった工業社会のテクノロジーを支えてきた様々なコモン・センスと称する世界観、思想、哲学の正体を吟味する道が開けてくる筈。

 それは、現代の環境問題、消費者問題、人権問題の本質を考え抜く上で不可欠の作業である。


最終部分の抜粋

11、ジェレミー・リフキンの個人的な見解――オルタナティブなバイテクの探求――

(1)、私は、新しいバイオテクノロジーの導入に全く反対しているのではない。
問題は、どんな種類の科学やテクノロジーに賛成するか反対するか、である。
       ↑
あたかも、近代の夜明けに、宗教の批判者がヴァチカンから糾弾されたことと似ている。
この時、教会の公式の教義に異議を申立てるものはすべて神を否定する者とみなされた。
       ↓
しかし、神をあがめる方法は沢山あるのだ。
これと同じように、科学をほめたたえる方法もほかにまだ沢山あるということだ。
世界を遺伝子還元主義の立場から眺めることしかできないわけではない。
生態環境学のように、自然に対しより統合的でシステム全体を考えたアプローチもある。
この学問が遺伝子還元主義と違うのは、
後者が分離を好み、超然とすることを好み、力を応用して侵入することを好むのに対し、
前者は、分離より統合を好み、超然より参加することを好み、力の応用より社会的な責務やいたわりを好む。
       ↓
こうしたアプローチの違いは、実行の段階で、非常に異なった正反対の方向に進むことになる。

(a)、農業
遺伝子還元主義は、広範囲の生物界に対して防備を固め、独立した安全な避難所を作ることに努める。
生態環境学者は、ゲノム・データを使って、環境の影響と突然変異の関係について理解を深め、生態環境に基づいた農業科学――総合的な害虫管理、輪作、有機肥料、さらには農作地を栽培地の生態系の変遷の型と両立させる計画的で持続性のある方法を推進させることに努める。

(b)、医学
遺伝子還元主義は、変更された遺伝子を患者に組み込み、異常を「訂正」して病気の進行を抑えようとしている。
全体論的な立場は、環境誘因と突然変異との関係を探求し、より複雑で科学的な根拠に基づいた予防治療の理解を深め、その方法を確立したいと考えている。
            ↑
米国ほか工業国の死者の70%は心臓発作、卒中、乳がん、結腸癌、前立腺癌、糖尿病などの「富裕病」であり、食事やライフスタイルも含めた環境要因が突然変異の誘発を助長する主な要素であることは分かっている。そこで、この「環境誘因と突然変異との相互作用」を探求する必要がある。
  
では、なぜ、2つのアプローチはお互いに手を携えて協力し合うことができないのか?
              ↓
ビジネス界がてっとり早く儲けにつながる前者のアプローチを支持しているため。

(2)、科学者の偏見について
 分子生物学者の中には、あいかわらず自分たちのアプローチには偏見はなく、客観的で、価値観に囚われていない唯一の真実の科学だと信念を抱いている人がいるようだ。
             ↑
しかし、もともと、どんな研究者であれ、探求という行為には、常に、その研究者の先入観・世界観が暗黙の前提となっている。
ex. 科学やテクノロジーの「進歩」は、あたかも自然の進化や自然淘汰と同様であり、そこには何の制約もない、と。
     ↑
   ちょうど、芸術の「表現」にはあたかも自然の表現と同様であり、そこには何の制約もないと考える作家。
     ↓
  だから、遺伝子操作といったテクノロジー導入に反対することは、無分別で無益であり、自然に背くのと同様な無意味なことである。
  なおかつ、新しいテクノロジーの導入に対して、テクノロジーはもともと中立的かつ必然的なものだという理由で、それがどのようなリスクをもたらすかについて真剣な検討をする責任(←これこそ人類の責任というべきである)を免れている。
     ↑
そこで、こうした科学者が陥っている無意識の先入観・世界観を一度、徹底的に吟味し、批判しておく必要がある。
  ex. テクノロジーはもともと中立的かつ必然的なものか?
       ↑
      ノー
∵ テクノロジーはもともと我々の生物的肉体を拡大し延長したもの。その行使にあたって、誰か、もしくは環境の何かを必ず傷つけ、弱め、利用しているから。その意味で、テクノロジーは本来的に中立的であり得ない。
       ↓
 そうだとすれば、テクノロジーの行使にあたって、その規模や範囲が適切か、或いは途方もないものかを見極めなくてはならない。その問題を最も突き付けたのが原子力である。
 原爆と核エネルギーは物理学の離れ業としてト20世紀最高の科学的業績として登場したが、そのリスク・脅威はいかなる潜在的な利益をもしのぐという結論に達し、政策の転換を余儀なくされつつある。それを余儀なくさせたのは一般大衆だった。
   ↓
だとしたら、20世紀の物理学の真骨頂ともいうべき核テクノロジーに代わって、いま視界に入ってきた21世紀の生物学の真骨頂ともいうべきバイオテクノロジーに対して、いかなる新しい技術革命に問うて然るべき、入り口における危険な問いをここでも発することは全く要を得たものと思われる。
――この新しい遺伝子操作に本来備わった力は、適正な力の行使であろうか?
――それは、地球上の生物学的多様性を不安定にし枯渇させないだろうか?_
――それは、未来の世代及び我々の旅の道連れである生き物の選択の自由を守るものか、それとも狭めるものか?
――それは、生命に対する尊厳を促すものか、それともおとしめるものか?
――それは、すべてを考慮した結果、害より益をなすものか?

 バイオテクノロジー革命の主な参加者にとって、
無限の潜在的可能性を有している遺伝子操作が、部分的にせよ、否定されることなぞあり得ない
と思われるかもしれない。
     ↑
 しかし、我々は、高々つい一世代前に、核エネルギーを部分的にせよ放棄することを想像することなぞ、誰も考えつかなかったことを思い出すべきである(なぜなら、何しろ、それはエネルギーへのあくなき欲求を抱えた社会にとって究極の救済であると熱烈に歓迎されたのだから)。

 バイオテクノロジー革命がこれほど騒がれるのは、それは企業がそこから莫大な潜在的な利潤獲得を目指すからである。
 ということは、反面、人々が望む商品・サービスを提供するためである。人々が望まない商品・サービスを提供してもしょうがない。
 だということは、バイオテクノロジー革命の未来は、この商品・サービスを購入する我々消費者自身の意思・動機にかかっている。
 つまり、我々消費者自身の期待、欲望、精神的態度、価値観がバイオテクノロジー革命の未来を規定する。
 それを正しく行使するためには、バイオテクノロジー革命を正しく認識しなければならない。

 その永続的な啓蒙と実践の中で、バイオテクノロジー革命の未来が決定される。

 未来は我々消費者の手にかかっている。