2014年5月14日水曜日

福島県の言論抑圧に抗議する(その2)「福島県・復興庁のいう『復興』だけが「復興」ではない」(2014.5.14)

 法律家 柳原 敏夫
今年3月に来日したノーム・チョムスキーは、民主主義社会における思想統制のやり方の1つとして、政府とマスメディアが、あらかじめ可能な選択肢のうち、一部の選択肢しか市民に提供せず、その中でしか選べないように仕向けることを挙げている。
例えば、社会システムとして、資本主義か社会主義かの2つの選択肢しか示さず、どちらかを選ばせるように仕向ける。そこで、人々はしぶしぶ資本主義を選択する、という具合に。

今回の「福島の復興」がその典型だ。福島県(そして復興庁らの政府)と マスコミは、人々は子どもも含めて福島に残って、復興に励むか、それとも復興を放棄して福島から去るか、この2つの選択肢しか市民に提供しない。そして、そこから選ばせる。後者はあたかも非国民のような扱いである。

しかし、言うまでもなく、そのどちらでもない「復興」のやり方がある。
チェルノブイリの経験から、除染が困難を極めるものであることは想定済みでのことであり(菅谷昭松本市長)、その間、放射能への感受性の高い子どもたちを汚染地域に住まわせ続けることは犯罪同然であり、従って、まずは子どもたちを非汚染地域に避難させた上で、大人たちは汚染地域の除染対策等と取り組むべきである。これが私たち「ふくしま集団疎開裁判の会」が2011年からずっと言い続けてきた「復興」(私たちの言い方だと「命の復興)である(菅谷昭松本市長もこの立場である)。
これに対し、福島県の子どもを汚染地域に住まわせ続けるやり方は、経済を最優先する余り、子どもの命を粗末にする「経済復興」である。
このように、復興には、少なくとも福島県が推進する「経済復興」と「ふくしま集団疎開裁判の会」や菅谷昭松本市長が主張する「命の復興」の2つがあり、人々はこの両方のことを知って、吟味した上で自らの決定を下すことができる必要がある。それが民主主義の基礎となる「言論と討論の広場」である。

この 「言論と討論の広場」に貴重な情報を提供したのが、今回の「美味しんぼ」である。
 「美味しんぼ」を読んだ読者は、(子どもたちが)福島から避難することと(大人が)福島を復興することが両立する「命の復興」という選択肢が現実味を帯びて迫ってくることだろう。
 そのとき、福島県が「美味しんぼ」が福島の復興を妨げていると非難するのは、単に、福島県が命より経済を優先する「経済復興」が妨げられていると文句を言っているだけのことだと理解できるだろう。命を最優先する「命の復興」にとって「美味しんぼ」は何ら妨げにならないどころか、鼓舞され、激励される。

福島県は、今こそ、「美味しんぼ」から学び、「子どもの命を守る」という政治の原点にたち返って、復興を再定義すべきである。

(※)自らは説明責任を果さず、少数意見の表現者には「断固容認でき」ないと抗議声明を出す福島県の言論抑圧に抗議する

(※)「漫画「美味しんぼ」の表現の自由を抑圧する福島県に抗議する」(ふくしま集団疎開裁判の会)  

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